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デジタルカメラはイメージセンサーにRGBを受光できる素子が搭載されており、受光した光の強さを元に写真を作ります。
ではデジタル以前のフィルム、そしてフィルム以前はどのように写真ができていたのでしょう?
答えは光を受けて固まる感光剤です。
感光剤の発見と進化によってフィルムは完成し、フィルムが完成した事によって、カメラは現在の形になりました。
カメラ・オブスキュラの光を画家が下書きとして使用する中で、多くの発明家や学者は「この像をどうにか定着できないか?」という事を考えていました。
アスファルトを使用した印刷技術を開発したフランスのニエプスもその発明家の一人です。
ニエプスの印刷技術というのは、溶けたアスファルトは光が当たった場所は固まり、光が当たっていない場所は固まっていないため、薬液で洗い流すと、光の当たった場所が溝となって残るという物で、ニエプスはこの技術をヘリオグラフィ(太陽を描く)と名付けています。
簡単に言うとサンダルや水着の形に日焼けしてしまう現象と同じ原理。
「カメラ・オブスキュラでもヘリオグラフィって使えるよな?」
そう思ったニエプスは、8時間以上の露光時間をかけて、1827年に世界初の写真となる「ル・グラの窓からの眺め」の撮影に成功しました。
「ル・グラの窓からの眺め」は言うまでも無く世界を変えた写真の1枚です。
色々な所で見る事ができるので、まだ見ていない人はチェックしておくように。
世界初の写真撮影に成功したニエプスですが、8時間という露光時間はやはり実用的ではありません。
そこで画家であるダゲールと強力して露光時間を短くするべく研究を続けます。
残念ながらニエプスは志(こころざし)半ばで急死してしまいますが、ダゲールはニエプスの死後も研究を続け、アスファルトより感光性が高い素材を用いたダゲレオタイプのカメラを1839年に発明しました。
初期のダゲレオタイプの露光時間は10〜20分。短いとは到底言えませんが、8時間以上の露光時間を要したヘリオグラフィよりは大きな進歩であり、実用的なカメラがここに誕生しました。
露光時間は長いですが、鮮明で綺麗なディテールを残す事ができる事がダゲレオタイプの大きな特徴です。
銀メッキを使用した銅板である事から、日本では銀板写真と呼ばれています。
死体を写真に残す「遺体記念写真」というのが流行した時代でもあったそうです。
故人をまるで生きているかのようにポーズをとらせ撮影する、ビクトリア時代の「遺体記念写真」
時系列が前後しますが、実はダゲレオタイプより前の1835年にカロタイプと呼ばれるカメラが完成していました。
カロタイプはダゲレオタイプとは異なるプロセスで、硝酸銀を浸透させた紙を感光します。
カロタイプの大きな特徴は、感光した紙はネガティブ(いわゆるネガ)であるという事です。カロタイプが登場した当初は、まだネガティブをポジティブに変える技術がありませんでした。
しかしカロタイプが一番に評価されなかったのは、写真がネガティブだったからではありません。
カロタイプを開発したタルボットは、カロタイプの完成度に納得がいかず発表を先送りにしていたのです。
「未完成だが、自分では限界だ。そろそろ資料をまとめて発表しよう」
資料をまとめている最中にダゲレオタイプが発表されたのでした。
その後、タルボットは自身が先に写真技術を発明している事を伝えましたが、ダゲレオタイプの方が鮮明に写る事もあり、写真の名誉がダゲレオタイプから覆る事はありませんでした。
ここまでの説明ではタルボットはタイミングの悪い不運な学者のようなイメージがありますが、ネガを作った功績は非常に大きな物です。
また、カロタイプを発表した後の1841年に、タルボットはプリントでポジティブを得る事にも成功しており、写真の焼き増しを確立しています。
焼き増しが可能になった事で、タルボットは1844年に世界初の写真集である「自然の鉛筆」を出版します。
ダゲレオタイプの弱点はネガを作らないので、複製(プリント)ができない。
カロタイプの弱点は、ダゲレオタイプに比べて描写能力が劣ることです。
この二つの弱点を克服した方法が1851年に開発された湿板写真です。
湿板写真はガラス板にヨウ化銀(ヨウ化物を分散させたコロジオンと硝酸銀溶液)を塗布し、湿ったまま撮影する事から、日本では単に「湿板」、ロコジオンを使う事から「コロジオン湿板」と呼ばれる事が多いです。
湿板写真はダゲレオタイプより鮮明で、カロタイプのように複製も可能。おまけに露光時間も短くなり、更に安価でもあったため、この技術はすぐに世界中に広がっていきました。
しかし、この技術が広がったのは単に良いものだったからではない という事は伝えておかなければいけません。
湿板写真を開発したイギリス人のアーチャーは、湿板写真に対して特許を取得せず、誰もが自由に使える物にしたのでした。
アーチャーはこの湿板写真を開発した数年後に43(又は44)歳という若さで貧しいままに亡くなったとされています。
死後の記事によると、「非常に目立たない紳士で、健康状態も悪かった」と記されていました。
紳士すぎるが故に哀しみがデカい。ありがとうアーチャー。
写真家であり、医師でもあったイギリス人のマドックスは、湿板写真のコロジオンが発する蒸気(ジエチルエーテル)によって体調を崩している事に気づきました。
そこで、マドックスは乾燥したまま使用できる乾板写真を1871年に開発しました。
乾板写真は、臭化カリウムと硝酸銀の溶液にゼラチンを加え、ガラスに塗布して乾燥させて使用します。
湿板写真は撮影前にガラスを浸す工程がありますが、乾板写真はそのまま使用できるため、屋外での撮影では荷物も大きく減らす事に成功しました。
乾板写真の良い所は、健康被害の低減や、荷物の削減だけではありません。
湿板写真より乾板写真の方が保存が利く事から、1878年に工場での大量生産がスタートします。
簡単に手に入り、簡単に扱う事ができる乾板写真はカメラの参入の敷居をグッと下げる事に成功しました。
産業化の始まりや!!!!!
乾板写真は、ガラスやシートで1枚撮影する毎に再装填する必要がありましたが、1881年にアメリカのヒューストン兄弟がロールフィルムの技術の特許を取得します。
しかし、特許の取得のみで大量生産には至らず、最終的に特許はジョージ・イーストマンに売却します。
イーストマンは乾板写真を製造する会社を立ち上げ、世界初である紙製のロールフィルムを1888年、続いて紙をセルロイドに置き換えたロールフィルムを発売します。
イーストマンはフィルムメーカー コダックの社長ね。
当時、写真に使われていたネガをプリントする際は、撮影した実寸でプリントする事が一般的で、小さなフィルムでも名刺サイズくらいの物まででした。
ライカのエンジニアであり、身体が弱かったバルナックは小型で軽量なカメラを作るため、35mmフィルムを大きく引き伸ばしてプリントする事を考えました。
そして送り出されたカメラが1925年に登場したライカI。35mmフィルムを使うので、これまでのカメラよりボディの小型化に貢献しており、いわゆる“カメラ”はここに誕生したのでした。
元々、35mmフィルムは映画の撮影用に作られた規格で、イーストマンとエジソン(あのトーマス・エジソンです)によって開発されました。
ライカ無くして35mmフルサイズ無し。
日本のカメラメーカーができるのはココから約10年後の事。
時代は戻って乾板写真の頃。当時は青色や藍色が強く残る乾板写真が一般的でした。
そんな時、ドイツの光化学者であるフォーゲルは乾板写真の工場にて、撮影した写真の緑色が強く描写されている事に気づきました。
フォーゲルはこの点について追求し、染料を少量添加する事で多くの色を記録できる事を発見します。
そして最終的に赤橙黄緑青藍紫の7色全てをモノクロで表現する事に成功します。
カラーフィルムもフォーゲンが発見した技術の応用で、実用化したのはロールフィルムを世界で最初に発売したジョージ・イーストマンのコダックです。
1935年に映画用が先だって登場し、続いて写真用のフィルムが1936年に登場しました。
カラーフィルムには、フィルムの上に青、緑、赤に感光する感光剤が塗ってあり、感光させて現像をするとネガが出来上がるようになっています。
カラー写真は現像が難しく、モノクロ写真に比べると自宅で現像する人が大幅に減りました。
写真の明るさは絞りとシャッタースピード、そしてフィルムやガラス板に塗布された感光剤の感度によって決まります。
当初は職人の腕と経験でコントロールしていましたが、この敷居を下げた道具が露出計です。
露出計の登場によって、絞りとシャッタースピードと感度が具体的な数値として分かるようになってきました。
しかし絞りはF値、シャッタースピードは秒と決まっていましたが、感度はフワッとしていました。
そんな環境の中で、アメリカの基準であるASA感度、ドイツの基準であるDIN感度など、多くの基準が誕生しました。
言うまでもなく「これはマズイ!」
そこで立ち上がった機関が国際基準化機構(ISO:International Organization for Standardization)。
彼らがフィルムの感度を統一化し、1974年にフィルムは世界で共通のISOを用いるようになりました。
GJ、ISO!
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