写真より語る人が前に出る、クソダサポエム症候群はなぜ生まれるのか

SNSやnoteを眺めていると、ふと立ち止まってしまうことがあります。

  • 「言葉にならない想いが、静かに胸を満たしていった」
  • 「この景色は、あの日の自分そのものだった」
  • 「説明できないけれど、心は確かに震えていた」

写真に添えられた、トレカショップの生ぬるい空気のような言葉たち。

写真そのものよりも、「それを撮った自分の気持ち」を説明することに重きが置かれた文章。

見ていて不快なので、読み進める理由を探す前に、ページを閉じてしまいます。

なぜ、写真を撮る一部の人は、写真にクソダサいポエムを載せてしまうのでしょう

僕は、「写真は多くを語らないからこそ良い」と感じてきました。説明しすぎず、見る人に委ねる余白があること。それは、写真の大きな魅力のひとつだと思っています。

それでも、写真に言葉を添えたいと思う場面があります。

沈黙を壊したいからではありません。

むしろ、その沈黙を、きちんと残したいからです。

詩として成立していればいいんだけど、成立してないんだよなぁ。

それでも、言葉が必要だと感じる理由

写真が記録できるのは、突き詰めれば光だけです。音や匂い、その場の温度や空気の重さは写りません。撮影した瞬間の緊張や迷い、少しの怖さも、写真の外にこぼれ落ちてしまいます。

写真は、とても強力な表現手段である一方で、同時に、多くの情報を失った状態で残されるものでもあります。

たとえば、野生動物の写真。親子が並んで写っていれば、穏やかな場面に見えるかもしれません。
しかし、その直前に何があったのか。張り詰めた時間だったのか、偶然の静けさだったのか。

写真だけから読み取るのは、正直なところ難しいものです。

言葉は、写真を飾るためのものではありません。

その場にあった背景や流れを、あとからそっと補うための道具です。

写真を「ただの画像」として消費させず、 自分の中に引っかかったものとして残すために、僕は言葉が必要だと思っています。

「美しい」で終わらせないために

「美しい」 「綺麗」

こうした言葉は、決して間違いではありません。 ただ、シャッターを切った理由としてあまりにもありきたりなのです。

撮影者として向き合いたいのは、 その美しさがどこから来ているのか、という部分です。

光の向きなのか。
被写体との距離なのか。
ほんの一瞬のタイミングなのか。

それを言葉にしようとすると、自分が何を見て、何に引っかかったのかが見えてきます。

言葉を探す作業は、写真を撮ったあとに、もう一度その場に戻るような感覚に近いかもしれません。

使う言葉が雑だと、見ていたものも、どこか曖昧になります。言葉の解像度は、写真の解像度と、思った以上に深くつながっています。

RAW現像でも「楽な答え」を選ぶと、自分の見ていたものが写らなくなることがあります。

写真を説明することの、どうしようもないダサさ

ここで一度、言葉と写真の関係について、はっきり分けておきたいと思います。

写真集に添えられている文章と、クソダサポエムは、似ているようで中身がまったく違います。

クソダサポエム症候群の患者は、写真が語れていない分を、撮った自分の感情説明で無理やり埋めようとするのです。

結果、写真よりも語っている自分の方が前に出てしまいます。

例えるなら、 滑った笑いのタネを横で解説しているようなものです。 「ここが面白いところです」と説明した瞬間に、 周囲にいる全員から冷たい目線が送られます。

そう考えると、かなりダサい行為だとも思います。

写真に言葉は本当に必要なのか

僕は写真に言葉は必要だと思っていますが、正直に言えば、子供の成長記録以外では、自分の写真にはほとんど文字を入れていません。

それは「ただ綺麗だと思ったから」という抽象的な理由でシャッターを切っており、言葉を込めるほど深い写真などほとんど撮っていないからです。その事実だけが、写真の中に残っていれば、 それで十分だと考えています。

感情を言葉にしきれなかったとしても、 理由をうまく説明できなかったとしても、 シャッターを切ったという行動そのものが、すでに自分の感情が動いたひとつの記録です。

写真に多くを背負わせすぎず、 言葉にも役割を押しつけすぎない。

言葉に頼らず、写真に任せるくらいがちょうどいい気がしています。

饒舌で薄っぺらくなるくらいなら、黙って写真に任せた方がかっこいいぞ。

いいから、カメラ持って外行こうぜ!

俺のデジモノ手記


01 思考の章

写真は、楽しければ良い


02 技術の章

カメラで、遊ぶ


03 表現の章

「誰か」の真似は、もう終わり


04 結実の章

今の僕の答え


付録

使用機材とカメラ設定