ネットで見かける記事タイトルに、「販売したLightroomのプリセット、好評で何よりです」と誇らしげに書かれているものがありました。
記事本文を読む前から、僕は違和感を覚えました。プリセットを作る人と、それを買う人。両者の関係が、趣味としての写真の本質と噛み合っていないように思えたのです。
写真は義務ではありません。仕事でもなければ、納期も、クライアントも、評価制度も存在しません。
「それっぽい写真が手に入った」という小さな満足感のために、“他人のプリセットを使おうとする姿勢”に、どうしても理解ができないのです。
プリセットの色合いやコントラストは、自分の目で見た風景や感じた空気と本当に一致しているでしょうか。
その場で感じたはずの自分の感情は、プリセットという既製品を被せた瞬間に押し潰されてしまいます。
それは、自らの記憶を他人の感性で上書きする作業に他なりません。
なぜ趣味において“効率”を求めるのか、わからん
釣りをする人に「スーパーで魚を買えばいいじゃないか」と言う人はいません
草野球を楽しむ人に「わざわざ自分でやらなくても、野球観戦じゃダメなの?」と言う人もいません
あなたは「写真なんて写真家に任せれば?」と聞かれれば、何と答えますか?
時間をかけ、失敗し、無駄に見える工程を踏む。 その非効率さえも楽しむことが、趣味の中核です。
- なぜヒストグラム上は問題ないのに暗く感じるのか
- なぜ色は合っているはずなのに落ち着かないのか
- なぜあの場で感じた空気が再現できないのか
こうした違和感に悩み、試し、失敗する。この経験によって、ようやく自分なりの判断基準が育っていくことも写真の面白さです。
それにもかかわらず、「早くそれっぽくしたい」「考える工程を飛ばしたい」という発想が先に立った時点で、趣味としての構造はすでに崩れています。
俺そこまでして時間を節約して、余った時間で効率的な写真でも量産するつもりか?
見栄えのいい結果を急ぐのは、他人を意識している証拠なのでは?

なぜRAW現像にしがみつくのか、わからん
RAW現像がプリセットを当てて終わるのなら、その時点でJPEG撮って出しと本質的な差はありません。
彩度もコントラストも 「今回はカメラの範囲内でやる」「自分は構図に専念する」と最初から決める。JPEG撮って出しは判断をカメラに委ねるという、一貫した決断です。
その決断をあえて放棄し、わざわざ「自由で手間のかかるRAW現像」を選んでおきながら、やっていることは他人のプリセットを当てるだけ。 その矛盾に、自分で気づかないのでしょうか。
俺ジャングルジムに登って降りられなくなった子供かよ。

プリセットは「勉強用」には向いていない
プリセットについて、「中身を分解して勉強すればいい」という意見を見かけることもあります。
各スライダーの意味を理解し、色やトーンの構造を読み解く。理屈としては正論です。
ただしそれは、そもそもRAW現像そのものに腰を据えて向き合う人の話です。
「プリセットを当てて楽をしたい」「考える工程はできるだけ省きたい」という層にとって、プリセットの解体と理解は荷が重すぎます。
実際には、一度設定を眺めて「なるほど」と思った時点で終わることが多く、結局は“便利な道具”として使われ続けるケースがほとんどでしょう。
俺教科書を読んだだけで、ノートに書き出さない。……高校時代の俺の話だ。
書籍はきちんと解説してくれるので勉強になります。
なぜ自分の気持ちに、他者を介入させるのか、わからん
そうして思考を放棄し、判断を外注する。プリセットに頼るRAW現像とは、仕上がりに対する判断と責任の一部を他人に渡している状態です。
撮影時では、自分で被写体を選び、自分で光を読み、自分でシャッターを切っている。それなのに、なぜ「どう仕上げるか」に他人を介在させるのでしょう。
RAW現像とは、カメラには分からない撮影者の感覚を、引き出す作業です。
そのプリセットには、シャッターを押した瞬間のあなたの気持ちが反映されているでしょうか。
俺1000枚失敗してやっと撮れた写真に、他人のプリセットで「ハイ、完成」?笑わせるなよ。
これが、プリセットを使った写真の末路かもしれません。




